とりあえずジュネーブをうろうろしてます。
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中高時代はバスケの選手をしていた。
中学時代は全国大会に行く部員200名のマンモスチームだったからまだ判るが、弱小チームだった高校時代でもスポーツは根性の世界であって、楽しむ余裕などなかった。
負けが込んでくると、キャプテンは「根性」を口にした。
「根性ってなんだよ。そんなもんでこの点差が返せるのか」
と、拙が言うと、チームメイト全体が「何言ってんだよ」と怒りだし、ポイントゲッターであるにも関わらず、拙は交替させられ、ますます点差はついた。
試合後のミーティングで、
「ね、だから根性じゃ勝てないだろ。根性でますます点差がついたじゃん」
と言うと、
「お前は根性が腐っている」と、
カントクをしている指導教員に殴られた。
キャプテンの根性は誤用だが、カントクの根性の使い方は正しいと思った。
でも、カントクまで根性という言葉に汚染されているのか。
東大卒なのに、メンタルと思考が未熟なおっさんだと思った。
根性というよりも、そのときに必要とされた言葉は精神的な「粘り」だっただろうと思われる。
スポーツの面白さのひとつは、精神力が技術力や体力に勝って、意外な結果を導いてしまうことにある。
試合に臨むときは相手がどんな強豪でも、「勝ちたい」と闘志を抱いていることは拙も皆も同じだ。しかし、勝敗が見えてくると、考え方は変化していく。
「勝ちたい」から「負けたくない」を経て、「自分の出来るバスケを精一杯やろう」という具合。でも、実際は相手との力量の差にイラついている気持ちを整理する言い訳に過ぎない。
「粘り」を求められる状況で、「根性出せ」と言われると、こんな点差になってまだ勝ちたいのか?現実的じゃないし、具体性がない。なんだよ?根性って??
単に言葉の問題ではなくて、ゲームに対する姿勢やメンタリティに独特の感性があるわけで、そういう状況では必ず「巨人の星」のテーマが頭を過ぎる。皆、毒されている、いや、影響されてんだな。
ところで、粘りと言えば、納豆を2度作ったものの、2度目は粘りが足りない。いつまでも煮豆のニオイがする。食べても美味くない。
1度に大量に作ろうとして、前回より生大豆を200g増やして700g分を使ってみた。すると、温度管理と酸素の吸収量に影響したらしい。発酵が遅かっただけでなく、引くべき糸が少ない。
1回目は500gで成功したので、近所の友人に裾分けをコミットしてしまったが、人様に差し上げられる品質ではない。そういえば、ロンドンでも3回作って、最初しか成功しなかった。
どれも欲を出して、大量に作ろうとしたことで、容器に入れた大豆の層が発酵のキャパを超えてしまったことが原因である。
生大豆で700g分を納豆にすると、楽に20回分の食事になる筈だったが、食べると腹を壊しそうだし、ともかくマズイ。
この納豆を見て、高校時代に「粘りがない」と試合から出された自分を思い出した。粘らぬモノは捨て去られるのみか。
更新が遅いと交信に影響するという指摘を受けた。
そんな言葉は漢字変換する際に気付いたと思われる。
実際、最近はブログで逃避行為が出来ないほど忙しい。
理由は仕事のスケジュールにある。
ま、そんなわけで。
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