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在スイス退役英国軍人の集いに参加してきました。
スイスに居ても、拙の周囲には英国社会が居しているわけで、
ある意味で「英国と暮らーす」が続いているわけです。
退役軍人たちと言えば、85歳以上のご高齢ばかりと思っていましたが、
英国はその後もIRA、フォークランドなどの紛争を抱えて来ましたので、
比較的若いスイス在住者も参加していました。
90歳のお爺さんはマレー沖海戦で水兵だったそうで、
貴重な生存者ですが、同海戦で日本軍に右足を吹っ飛ばされたとか。
当時は日本人を憎らしいと思ったことは隠しませんでしたが、
杖を突きながら、拙のところに歩み寄って、
「君たちは夫婦は、日英の平和の象徴だな」
と言い添えてくれました。
ブッシュ大統領に聞かせてやりたい言葉ですね。
戦争が終わって、関係が修復されるまでの道のりの長さを感じます。
我々の婚姻した1980年代の終わりでも、「日本人と結婚するなんて信じられん非国民だ」と罵る高齢の英国人はたくさん居ましたからね。
ホロホロ鳥のローストを頂きながら、
SAS(英国特殊部隊)の退役軍人のスピーチを聞きました。
やはりSASに居ただけあって、常人とは異なります。
立ち姿に隙がないと言うか、
自らを律する意志の強さと気高さを感じました。
相当怖い経験や汚れた任務をこなしてきたらしく、
数々の勇姿やエピソードを楽しく語ってくれました。
例えば、英国内の農家に潜むIRA幹部を捕まえるために、
ある隊員は二昼夜に渡って堆肥の中に埋もれて過ごしたとか。
(用便はそのまま済ませたのでしょうか?でも、食事は?)
今年のSASへの入隊希望者は世界中から1万人ほど居たそうですが、
入隊できたのは5名だけだそうです。
エリートという選ばれし人々は糞まみれになってもモノともしない強靭な意志を持っているのでしょう。
日本人でも過去に何名かSASに参加した人々が居ました。
その後一人がフランスの傭兵になったと記憶しています。
奇しくもスイスは元傭兵の国です。
精密、機械などの地場産業が成り立つ以前のスイスは生活苦からオーストリア、イタリア、フランスなどの近隣諸国に傭兵を出していたのです。それゆえ、戦争になると親兄弟が争うということもあったそうです。貧しさから男が兵士になり、女は身を売るという構図はどうしようもなかったんですかね。
さて、今度はどんな集いかな。
今週は野暮用が多くて、あまりアップできないかも。
あ、仕事も溜まってきた。
押してたもれ。
明日、25日はマーラが神戸で走ります。
http://www.ktv.co.jp/kobe/profile.html#runner
(英外務省は現在無給休暇中。旦那がマネージメント)
だいぶ前に旦那から連絡を貰っていましたが、
直前にここで告知するつもりでおりました。
本当に直前になってしまいました。
彼女の記録は、
英国内ではラドクリフに次ぐ2位は変わらず、
2007年の世界ランキングでは18位、
通算世界ランキングでは10位以内に入ると思うのですが、
IAAFのサイトに行っても適当な数字が見えません。
まあ、とにかく速いってことで、応援して上げてください。
かつては日に3000アクセスも頂いていたこのスペースでの告知が役立ったようですが、
すっかり有名人になった今ではメディアの露出も増えて来ました。
Googleアラートで毎日のように配信されます。
一方で、なかなか会えなくなりました。
最後にホッぺにチューして別れたのはもう2年前のクリスマス。
来年の北京オリンピックが終われば落ち着くんだろうか。
知り合いの英国人の話。
彼女はフォークランド紛争の数年後に、
同地の高等弁務官事務所に赴任していた。
彼女はガヴァナー(総督)の秘書だった。
彼女のご主人は一等書記官だった。
いつものように夫婦別々に自宅から車で出勤した彼は、
事務所に到着する直前に襲撃を受け、
還らぬヒトとなった。
これって、テロじゃん。
80年代初めのこと。
自爆テロが報道される今日この頃、
こういうことってやっぱり普通にあるんだよなあ。
日本の戦後にもいくつか隠れた事件があるけど、
今日のようにテロとして扱われることはなかった。
敗戦国のヒトビトの立場に照らしてみれば、
自爆テロが何故起きるかということは理解可能。
それが国家レベルの問題だけでなく、
夫婦・家族レベルでの悲しみに繋がることも然り。
でも、人類って成長しているんだろうか。
世の中、バカばかりに見えるのは拙の傲慢ですか。
2002年、ある英人の結婚式で
アルジェンチン人の隣に座った。
話がサッカーに及ぶ。
「ベッカム?彼は単に顔がいいだけでしょ。それ以上の何者でもない」
「君、この英国人の場に来て、すごいこと言うね」
「いや、僕は事実を言っているだけだよ」
「いやいや、事実ではないでしょ。君の見方でしょ」
「いやいやいや、僕だけじゃない。国の連中は皆そう思っているさ」
2002年W杯の直前の話でした。
あー、どこまで続く。このいたちごっこ。
スイス救急病棟
一昨日の続き。
屈強な隊員たちは、拙を救急車に乗せるとどこに行こうかと病院を探しはじめた。割とすぐ近くに一度止めたので、自宅から近くて良かった。夜中に治療が終えて、帰宅するのならタクシーでも安いだろうなどと考える。
道々、痛みの意識の中で明日は国連のバザーがあることを思い出した。前日、その準備で知り合った人々(日本人、タイ人、中国人などなど)に再開するのを楽しみにしていた矢先のことだった。準備を一緒にしていたG君には罪悪感さえ覚える。
安いクリスマスカードも買いたかった。あ、でも、これで今年は紙を無駄にせずに済むかな?皆さん、メイルでご挨拶していい?って、最近、友人たちはこの
ともあれ、来年は絶対に国連バザーに参加しようと思う。来年も同じ頃に、同じ病気になったら面白いな。いや、面白くない。痛いだけだ。それまでに治療を終わらせたい。
病院に着くなり、隊員たちは受け渡し手続き済ませ、拙の元に寄って来て、握手、握手。いやいや、本当にありがとう。助かったよ。
ロビーには10台あまりの担架が並んでいる。
「えー、10番目かよ」
フランス語よく判らんし、病院から帰る方法もよく判らんし、ということで同伴してくれた妻には椅子があてがわれて、大あくび。これも罪悪感。
気分が落ち着くまで、話していると、どこからともなく囁くようなS’il vous plaitの連呼。他の言葉ははっきり聞こえない。か細い哀れな声だ。
うとうとすると、その声が聞こえて目が覚める。目が覚めると痛みも思い出す。目を覚ますたびに「これが夢なら…」と思う。
その囁きの出所は拙の足元、隣のベッドにいる婆さんであることが判ると、不気味に思えた。妻もしばらくの間、どこからその声がしてくるのかが判らなかった。なんだ。腹話術か。
婆さんの声はしだいに大きくなり、泣き出すようになった。いつも同じパターンで、
「マダーム、ムッシュー、寒いわ。足のために毛布か何かを持って来て頂戴。シル・ヴ・プレ」
「マダーム、ムッシュー、私はいつまでここにいなければならないの~、教えて頂戴。シル・ヴ・プレ」
「なぜ誰も応えてくれないの~。オーン、オンオン」と声高くなる。泣き声もワンパターンで明らかなウソ泣き。狡猾なバーちゃんだ。
そして、こういう時間が延々と続く。病院のスタッフは時々話しかけては、この婆さんの世話をするが、かなりボケている様子。年齢は90歳くらいか。
「私はドイツ語圏なの」
と言うものだから、ある医師がドイツ語で話しかけると、彼女の反応が止まった。
「このお婆さんがいなかったら私たちも眠れるのにねえ」と妻。
待合ロビーで待つこと既に2時間。眠れず、痛みは消えず、目はぼやけて何もできない。
「この婆さんにモルヒネ打ってもらおうか?シル・ヴ・プレって」
それからさらに2時間後、この婆さんは治療室に運ばれて行った。拙は激痛はあるものの致命的な症状ではないし、モルヒネ注射を打たれているので、順番はどんどん後回し。
午前5時ごろに気づくと、アル中で搬入され点滴を受けている若いやつらと拙しかいなかった。
「順番はいつになるんだ。こいつらと同じ扱いってのはひどくないかい」と文句を言うと、英語の話せる看護士は、
「まだ痛むの?」ときやがった。
「痛いからここにいるんじゃないか。検査があるからって、連れて来られたんだ。担当医を決められなくたって、必要な検査はパラメディックのレポートからも明らかだろう。さっさと検体をとりやがれ」
と英語で毒づく。
「でも、検体を取ったって、結果が判るのは朝の9時以降よ」
「じゃ、何のためにここにいるの?何のためにここに連れて来たの?時間と体力の無駄遣いと、あのばーさんに精神衛生状態を悪化させられただけじゃん」
拙の主張には反論せず、看護士たちはすぐに拙を治療室に連れて行き、医師に会わせ、問診と触診、そして検体を取る。
事情を汲んだ医師はその部屋で妻と拙が寝ることを許可。時々世話を焼きに来る看護士は英語ができない。「起こすなよ、このぉ」
そんなこんなで、検査のあとの診断を経て、病院を出たのは11時ごろ。病気になって夜中中病院に居て、眠れぬまま過ごし、夫婦ともにとても不健康になって帰宅したのが12時半ごろ。
若い頃は一晩中飲み明かしたけど、40代後半でモルヒネで夜明かしはきつい。やっぱ、あの婆さんは体力あるんだなあ、と変なことに関心した。
時差ぼけのような感じは2日間続いた。病院に行けば、病気は治して貰える筈だけど、なんだかもっと病気になりそうな体験だった。まあ、救急病棟に行くことなんて滅多にないだろうけど、行くことがあれば、読み物を忘れずに。
それから、後日談で入った情報
拙は市民病院に搬送されたが、私営で対応が早い病院もあるとのこと。待ち時間もせいぜい2,3時間。普通はそっちにいくらしい。
昨日の続きを書こうと思いましたが、ちょと寄り道。
火曜日の昼に退院して、ゾウキンのようにくたばっていましたが、
水曜日は朝から雑務に追われ、夜は食事を済ませるとジュネーブ市内のUKパブに行きました。
拙の持病はお小水をたくさん出すことで治ることもあるからと、
スイスや英国の医者はビールを勧めるのです。
だから、ということで行ったのではありません。
拙宅にはまだテレビのデコーダがあないので、
本当はスイスと墺太利で共同開催される
ユーロ2008のEリーグの決定戦を観に行ったのです。
パブには20基以上の大画面が置かれ、
英国人とクロアチア人とでごった返していました。
クロアチアは既にクオリファイされておりますが、
イングランドはその2番目の座を得るために、
最低で引き分けが望まれます。
イングランドが勝てば、英国から30万人の観戦者が来るという試算があり、
その受け入れ準備は英国外務省と領事部門との間で進められていました。
しかし、結果はご存知のとおりであります。
前半は元代表イアン・ライトの養子ショーンがよくやっていましたが、
キーパーのポカで2点を献上。
以下、イアン・ライトの説明です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ian_Wright
試合中、英国のわが息子から時々テキストが届きます。
「ショーンはタイミングが早過ぎる」「惜しい」
サッカー選手でもある息子の友人にはステイシーというイアン・ライトの末っ子が居ます。自宅に招かれることもあるので、ショーンとも面識があるとのこと。身びいきになるのも無理からぬことです。
後半になると、ショーンに代わってベッキャムが投入されました。
後半のイングランドは動きが盛り返しました。同点に追いつきます。
不思議だったのは既にクオリファイされているクロアチアのプレー。
なんで、あんなにたくさんのファールをするんですかね。
一説に拠ると、
クロアチアの選手はたくさんイングランドでプレーしているので、
対戦相手として英国はもっともやり難いチームなのだそうです。
イングランドがユーロ杯に参加すると、
クロアチアはさらに研究されることになり、
カップ戦では強敵になりうるので、
ここでやっつけておきたい、ということ。
パブの中は英人とクロアチア人とが一緒になって観戦していましたが、
お互い応援が露骨でした。
最後の10分間になると、
Hold it と英語で言わなくても良いのに、
クロアチア人が味方チームを応援します。
それを見咎める英人を見て、
「ケンカすんなよ」と言えば、焚きつけるようなものです。
何事も始まらないうちに、パブから出ました。
妻は言いました。
「残念だけど、良かった」
30万人も英人が来れば、なにかと悶着が起こるわけです。
そうすると、拙もちょと大変なんです。
最近の外国人たちはマナーが悪いそうですから。
たまには押したれ!