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とりあえずジュネーブをうろうろしてます。
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在ジュネーブのスペイン総領事館が、本国からわざわざ外務大臣を参加させて、新事務所への記念式典を行った。

招かれたので、しょうがないなあ、と行ってみると、ラテン系の言葉でもスペイン語ってフランス語とは語感がかなり違う。どちらかと言えば、好きな言語。イタリア語のようにしつこくないし、フランス語のようにいやらしく粘っていないからかな。 女子もナンパされる体勢になっているのが好ましい。(そうか?)

式典には300名以上の人々が集まっていたが、なんだか拙の頭が人ごみから出る。スペイン人は背が低いのか? 日本に居るような快適な気分。

印象的だったのは女性の笑顔。歯を出して笑うのだが、なんだか歯が大きい。顎が頑丈そう。これまでに知り合ったスペイン人たちにも同じ印象を持つ。そして、結構目鼻立ちがくっきりしている。スペインの歴史は混血の歴史だから、アラブ系も混じって一種独特なのかな。

外務大臣、ミゲル・アンヘル・モラティノス・クジャウべを紹介されると、彼はいきなり妻にチューと。なんだか意外だった。拙は握手のみで、よかった。




デジカメを持っていた拙、突如、ある女性から写真を撮れという依頼をされた(と思う)

彼女は真ん中に自分を置いて、大臣を左手に反対側に自分の旦那を置いた。 なんだか強引だなあ。 漫画「ダメおやじ」の奥さんを思い出させるし。 明日、画像を送れと言っている気がしたので、先ほどCDバーニング。スペイン人はフランス人よりも相性が良いけど、言葉が通じないとねぇ。

その後、彼女と会話する段になると、ある女性がいつもくっ付いて来て通訳してくれていた。よく見ると、ドレッシーだし、年齢の割りにスタイル抜群。 「何者?」と質問すると、外務大臣の奥方だった。思わず、「すいません、通訳なんかさせてしまって。ところで、日本語は?」と冗談を言うと、「ええ、少しだけ」

その発音からして、「少し」ではないことが判った。 彼女、数年前までマドリード大学の日本語専攻科にも通っていたそうな。そういえば、そこで働く友人がいたね。あーただよ、あーた。

ジュネーブに来て以来、式典ではフランス語、ドイツ語などが主流で、スピーチの間中眠気を散らすのに苦慮する。スペイン語でも眠くなるのだろうな、と思っていたが、やはり眠くなった。でも、考えてみれば、つまらんスピーチを聞かされれば、日本語でも眠くなるもんな。因みにスペイン外務大臣のスピーチは笑いの渦で、当方立場なし。

もう寝る。ふて寝。


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最近は飛行機の爆音が大きい。しかも、お約束違反の11時以降の発着も多い。今、12時半だけど、また747の音が、ほら・・ね。

スキー客にとってジュネーブから100キロ以内にいいスキー場が多いということなんだろう。拙もクロカンに挑もうかと、店でコストを調べると、クロカン用のスキー板は200フランク、以下ストックは80、靴は150。日本円で合計しても4万円前後でまあまあのクオリティが望める。でも、まだやったことないから初回はレンタル。1、2月は仕事に追われるから、試技は3月かな。

汗だくになるのでスキーの後は温泉といきたいところだ。今回行ったイヴェルドン・レ・バンはイタリアからローマ街道の続く分岐点で歴史上の要所である。旅人もここで温泉に浸かり、英気を養ったと思われる。しかし、この温泉がどうも日本とはだいぶ異なる。

ほぼ毎日水泳をしているので、ジュネーブ近辺のプール事情はわかっているつもり。更衣室は外界面とプール面との2つのドアが設置された個室形式で、両ドアを閉めてから両翼に掛かる鍵を掛ける。「あー、面白れぇ。この工夫」と、ブログネタにしようと思ってからもはや3ヶ月近く。人間の同化は早い。

妻と子供たちはそのプールのシステムに馴染みがないから、設備の使い方をいろいろ考えていたが、拙には普通のプールそのもの。でも、日本の温泉とはここからして違いすぎるぞ。拙は温泉に来たのであって、プールに来たつもりはない。

水着を付けて、obigationと書かれた表示について、シャワーを浴びると屋内中が寒い。「早く、早く」と屋内温泉25mプールの中に入ると、「ぬるい!」 

硫黄のニオイに、息子は「うわ、誰かオナラした」と日本語で叫ぶ。順当な日本語の使い方だ。「まて、小涌谷や中禅寺湖畔を思いだせ」と言うと、納得。

ぬるいので全然気持ちよくない。欄干に沿って、人々が立っているので、隙間が空いたところに入ろうとすると、英語で言われた。「ここから始めるんじゃないの。初めから始めるのよ」



行くなら、夏がお勧め。

何、「初め」って? よく眺めてみると右から半時計周りに人々が壁に沿って回っているように見える。しかも、その回り方は植物の成長並みに遅い。ある部分ではジェット温水、然る部分ではライトの照射を身体の一部に当てながら、プール内を一周するというもの。

混雑ぶりからして、人気はあるようだが、この温水(冷泉?)浴に魅力を感じなかったのは家族全員。

「スイスに温泉あり」と聞いていたけれど、かつて英国のバースで触れた温泉と大差のない温度(35度未満)で、屋外のプールに至っては、顔は凍るように寒く、頭がしびれるほどだった。それでも、スイス人たちは皆楽しそうに温水浴に浸っている。

やはりスイス人にはなれそうもない。しかし、今まで会った在スイス邦人の中にはその温泉が良いと言うヒトも少なくない。確かに、超過料金払って和式風呂に入れば、それも納得であるが、多くは16歳未満お断りという不思議なルールもある。我々は子供のころから50度近い温泉に入って来たというのにね。


温泉に行こうという段になって、そこがヌーシャテル湖畔の街イヴェルドン・レ・バンと聞いて、最初にピンと来たのがぺスタロッチ。

18世紀後半から19世紀はじめまで、貧困者の教育に目を向け、今日の小学校から中等教育の礎を築いたと言われる人物。

拙がなぜこの人物を知っているのかと言うと、学生時代に学んだ教育原理と教育思想史で紹介されたからだ。

この街イヴェルドン・レ・バンの最高の名士と言ってもいいかもしれない。教育学に没頭していた頃の憧憬の人物に会えるような気がしたものの、実際にお目に掛かったのは、この銅像。



右絵は心なしか、菅原文太似?あるいは、ど根性ガエルのうめさん?

18世紀終わりのスイスにはフランス軍が進駐し、紛争となり、戦後にはたくさんの孤児が町の中に溢れた。ペスタロッチはその子供たち、5歳から15歳くらいまで(だったかな?)に教育と食事と寝床を与えた。

現在も彼の関与した学校は多数存在する。

1870年ごろ、ペスタロッチの学校を見学に来た日本人がいる。誰あろう、岩倉具視一向である。

「実際に学ぶべきはスイス」という岩倉の残した書簡や言葉には、当時のスイスの教育レベルの高さと教育が行き届いていて、大きな較差がなかったことを示している。そして、「これなら日本にも出来る」と岩倉は思ったそうだ。

日本は開国から50年で日露戦争を起こすレベルまで国力を上げたという見方がある。ヨーロッパの各国は農業国から産業革命を経て成功するまでに150年掛かっている。ヨーロッパというモデルがあったにせよ、大日本国政府がそのような短期間で近代化を図ったことはやはり驚くべきものだったんだな、と実感。そして、教育の恐ろしさである。


温泉の話が飛んだ方向に行ってしまった。 温泉の話は次回。たぶん。






書き出し前のキーワード;

温泉
ペスタロッチ
岩倉具視
ローマ街道
ヌーシャテル湖



1900年、パリで開催された第二回オリムピックに参加した日本人がいる。

誰あろう、誰でもない3名の飛脚である。

3名はマラソンに参加し、3名とも当時の世界記録を塗り替えた。

そして、その記録を42.195キロに換算すると、「え、なんでそんなに速いの?」と思われるほど、区間記録が短い。実際に彼らが42.195キロを走っていたら、マラソンの歴史は変わっていたのかもしれない。

彼らについての記録はローザンヌにあるオリムピック博物館には残されていない。

なぜなら、彼らがオリムピックの歴史から抹消されてしまったからだ。

ある出版社の依頼で取材したものの、こうやって我が事の興味を追求してしまう。

なぜなら、彼らの依頼よりも、自分の興味や欲求を満足させたいから。

ともあれ、当時の彼らは現在で言う「ドーピング」に近いことをしていた。

それは表題のごとく「飛脚」、つまり「プロの走り屋」であったことだ。

当時のプロ規定は厳しかった。

そのために、金銀銅は日本から剥奪されたとか? でも、この辺の記録は曖昧。

昨今、高橋オバQという女性などがプロ宣言をしている。

彼女は走って人々に夢を運ぶが、飛脚は書簡や荷物を運ぶ。

なにで稼げるか判らない時代になってきた。

と記録しておこう。

 

街はきれいで、犯罪も少なく、ヒトは親切で、誰もが英語を話して、食材や物資の豊富な街ならアナタはきっと気に入るだろうと妻が言ったのはいつのことだっただろうか。

 

生活を始めて1週間が経ち、ひと月を迎え、やがて3ヶ月目に入ろうとしている今、拙には妻の言った言葉でこの生活を埋めようとしても、埋まり切らず、事実に基づく印象はどんどん地底に落ちるばかりで、生活の中に大きな穴がぽっかりと開いたままになっている。しかも、生活のインフラが整わないまま、拙の生活は半ば立ち往生している。すべてが中途半端で、快適とはほど遠く、諸手続きにはかなりの時間を要する。

 

そういえば、先日の天皇誕生日パーテーでは名刺に困った。拙は自由業だから立場が変われば、タイトルも変えなければならないので、名刺の肩書きを変えてはPCで作って印刷をする。しかし、そのプリンターがイマイチ使い難いのは、期待していたPC備品やサービスがこのジュネーブには見当たらないためだ。やむなく、拙は急造名刺をA4普通紙に印刷して、「まだインフラが整わないんですぅ~」などといちいち言い訳をしながら人々に渡した。それならまだいいのだが、妻の場合は事務所と国のロゴ付きの壮大な名刺がいまだに出来ていない。当然、その種のパーティはもちろん、会合、レセプションで不便で恥ずかしい思いをする。でも、スイス人には恥ずかしいことではないようだ。恥ずかしく感じるのは、日本人並みに体裁を気にする英国人の妻だ。

 

スタッフによると、印刷屋のせいになっているのだが、それはオカシイ。そんなに時間が掛かることなら、前もってやっておくことも可能だった筈。そう言うと、スイス人担当者はいい訳をしてフェイド・アウトしてしまう。その言い訳に突っ込みを入れるのはスイスでは野暮に当たるのだろうか。この無骨なネイチャーの彼らに面と向かって物申したくらいで、その後は凄惨な人間関係の中で生きていかなければならなくなる。…とは考え難い。やはり洒落の通じなさは世界でもトップレベルなのではないだろうか。

 

ところで、これは洒落か、と思うような扱いを受けた。

 

先日、しばらくの間、拙の自家用車にはスピードメータがなかったばかりか、タコメータなど計器関係は何ひとつ付いておらず、ダッシュボードカバーも外されていた。

 


拙車は仕様変更の最終段階に入っていたのだった。その業者は言った。

 

「マイレージ表示からキロ表示に変える作業に2,3日手間取るので、ダッシュボードから計器を外したら、そのまま持ち帰っていいよ。3,4日後にまた取り付けに来てくれたら、小1時間ほどで付けるから」

 

「も、持ち帰るって????。計器なしで片道10キロ運転しろっての?」

 

「そうだよ。簡単だろ」

 

幸い、仲介してくれている職員が当方の意向(計器なしでは運転できないから代車を出せ)と、業者の意向(計器なくても走れるだろ)との間で調整し彼の奥さんの車を借りることになった。もちろん、その仲介者とその奥さんとの厚意と配慮であって、業者は関わっていない。

 

この話を仲介者から聞いて、しばし唖然。走行距離、ドライヴィング・ステイタス、エンジンの温度計、スピードメーター、燃料メータ、タコメータなど数々の安全を確認する計器なしでの運転など誰が許すのだろう。警察に止められたらどうする?事故になっても保険が下りるのか?責任は運転者に帰する筈だ。ちょと考えただけでも業者の判断が狂っているとしか思えない。しかし、業者はこのことに何も触れず、代車を出すとは言わなかった。理由は「運転できるから」だそうだ。

 

ああ、この国の常識ちょと怖い。

車は今のところ正常です。

 

 

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